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豆田地区(約10.7ha)は、歴史的町並みが評価され、平成16年12月『重要伝統的建造物群保存地区』(伝建地区)として国の選定を受けました。
これは「古い町並みを大事にしよう」という国の取り組みです。
時代の流れの中で、一度は静かになってしまった豆田町でした。 しかし、今、豆田の人達は古い歴史を持つ町並みを誇りに思い、大切に守りながら生かしていこうと考えています。

豆田町

豆田の町並み…その歴史。
江戸時代の初め、豆田町は丸山町という名前で、お城を中心にできた、所謂「城下町」でした。
丸山城はのちに永山城と呼ばれるようになり、町の名前も長山町になりました。

その後、お城の変わりに代官所が置かれるようになった頃、永山町はついに豆田町と呼ばれるようになったのです。
(ちなみに代官所とは、殿様が地方の領地を治めるために設置した、お役所のようなものです)

1686年に、日田は天領となり、幕末まで徳川幕府の直轄地でした。
 (天領は全国に約50ヶ所ありましたが、特に重要な場所が4箇所ありそこには「郡代役所」が置かれたのです。「江戸」「高山」「笠松」…そして「日田」。)
当時の日田の役割

日田は「西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)」として、九州大名のお目付け役となり、大変重要な役割を果たしました。

山紫水明(さんしすいめい)で豊かな土地であり、しかも北部九州の、ほぼ真ん中に位置する日田は、交通の要所でもありました。
代官所のお膝元にあった豆田町には、全国各地から、大名や商人が集まり、一際賑わいをみせていました。

豆田町の商人たちは、全国から集まる大名などを相手に商売をし、その才覚を存分に発揮して、豊かさを得る事に成功しました。
こうして豆田町は商家町として、繁栄していったのです。

ところが、明治時代に入り、江戸幕府がなくなると(明治維新)各地からの、大名や商人たちの往来も無くなり、豆田町は少しずつ、静かな町になって行きました。
衰退していく様が目に見えるようです。
しかし、その静かな町並みは…良い意味で変化を嫌ったかのようで、現在も江戸時代からの風情・佇まいを残したまま生きています。
昔ながらの長屋の姿をしたお店が連なり、様々な商品が売られています。
下町通り(御幸通り)は電柱の地下埋設工事まで行われ、再び昔の姿に近づこうとしています。

平成13年に、国土交通省の「美しい町並み大賞」を受賞しました。
行き交う自動車や観光バス…それでもこの町並みは汚れない。
江戸時代から生き続けている、この町並みの不思議な魅力。
栄えた時代も衰退した時代も、そのままの姿で変わらず生きてきた証。

それは商売人達の、お客さんを吸い寄せるような威勢のいい声。
あるいは永い時を「商売の町」として生きて来た、この町並みの逞しさか。

どちらにしても、衰退していた時代のこの町並みも、「活気と明るさ」だけは、捨てる事なく大切にしてきた…。
その意気込みが、遺伝子として残り、更に強固な商人の町に作り上げた。

そんな想いが自然と脳裏に浮かびました。

「日田の歴史」は豆田の町並みのかわら版より抜粋


詳しくは日田市観光−リアル日田にて、ご確認下さい。
大分県日田市の観光情報サイト−リアル日田